未来につなごう ふるさとの郷 高倉

高倉の魅力

地名の由来

origin

「高倉」という地名の語源については、次の2つの説があります。

1

今から千年以上前の奈良時代の終わり頃、朝鮮半島の高句麗からの帰化人の子孫で、高麗福信という人がいました。福信は武蔵国司、近江国司に任ぜられた高官で、晩年は高倉の姓を名乗りました。高倉は、この福信が居住した地だったため、名付けられたというのが1つの説です。

2

クラという言葉は、元々は谷や穴ぐらを意味する古語で、後に倉、蔵、鞍、座、庫などに分化していきました。高倉のクラも語源は同様と考えられます。従って、高倉は、高い所にあるクラ=窪地ということになります。具体的には、高倉地名の発祥の地は、字「尾かね」のあたりが該当すると言われています。

高倉の名所

池尻池

飯盛川からの水を引いている池で、かつては約10haの田を潤していました。池の面積は4,257㎡。池を取り巻く林は、静かな武蔵野の面影を今に残し、現在は池尻池公園(11,728㎡)として市民の憩いの場となっています。
この池尻池にある2つの島は、武蔵の国司、高麗福信が近江の国司であった頃に見慣れた琵琶湖に憧れて配したとも言われています。

桜並木

鶴ヶ島中学校前に続く桜並木は、三ツ木の川上正昭さん、故父川上庄作氏が昭和30年頃から30年間にわたり、ソメイヨシノの苗800本を私費で購入し植えたものです。
4月の上旬ともなると並木の桜はいっせいに咲き乱れ、鶴ヶ島の桜の名所となっています。ここ桜並木では毎年、桜祭りが盛大に行われます。

日枝神社

日枝神社の創立年は不詳ですが、伊勢湾台風で倒れたご神木の樹齢が300年を越えていたことから、近世初期にはすでに当地に奉斎されていたと思われます。
また、別の伝承によると、上新田の日枝神社を分祀したものとされます(中世は上・中・下新田は高倉の一部でした)。
明治40年に、字神明の神明社、字熊野の無格社熊野神社、字富士塚の無格社浅間神社、同境内社下浅間神社の4社を合祀しました。
境内には末社として、天神社、愛宕神社、稲荷神社があります。 本殿の建造年月は不詳。往時は剣と鏡を蔵していましたが、剣は盗難にあい紛失し、現在は鏡のみが残っています。

おかねが井戸

東京電力新所沢変電所東側の樹林地、字尾かねに「おかねが井戸」と呼ばれている小さな池があります。
その昔この池に、若い瞽女(ごぜ)(遊芸をして銭を請う盲目の女性)「おかね」が身を投げ、それ以来、この池はおかねが井戸を呼ばれるようになったと言われています。

高福寺不動明王画像

高福寺不動明王画像は、昭和59年、今は廃寺となっている高福寺から発見されました。鎌倉時代末期作(13世紀)の作品と推定され、大きさは縦82.5cm、横42cm。
右脇に制多伽(せいたか)童子(どうじ)、左脇には矜羯羅(こんがら)童子(どうじ)を従え、紅蓮(ぐれん)の炎を背にした力強い不動明王画像が描かれています。
痛みがひどかったため修復され、昭和61年、市指定の有形文化財に指定されました。現在は県立博物館に保管されています。

川崎平右衛門陣屋跡

川崎平右衛門陣屋跡は、江戸時代中期の元文年間(1736~41年代)に北武蔵野新田開発のために設けられた陣屋です。
その新田開発の区域は、市内はもとより近隣旧82か村にまたがるほどの広い地域でした。ここに世話役として赴任して来たのが川崎平右衛門定孝です。
陣屋跡の敷地内には、恩恵を受けた農民達により、「武蔵野御救(おんすくい)氏神(うじがみ)川崎大名神石祠」が建立されました。江戸時代中期の新田開発の歴史を考える上でも重要な史跡です。

日光街道杉並木

日光街道は江戸時代に八王子千人同心(武田家の遺臣)が日光東照宮警護のために往来した街道で千人同心街道とも言われています。
街道筋の松・杉の老樹は、寛永年間(1624~44年代)の頃の植付けと言われています。戦後の大型台風で、50本から60本もの大木が倒れ、並木の姿は大きく変わってしまいましたが、点々と残る老樹は、今もなお歴史の重みを感じさせてくれます。

念仏橋

おかねが井戸の下流、池尻池の上に、長さ9尺(2.7m)、幅6尺( 1.8m)の石造りの橋が架してあると「郡村誌」に記されています。これが念仏橋で、別の名を鼠橋と言います。今は道路改修工事で、石橋の石は他の場所に運び移されています。
この橋が架けられたのは、享保年間(1716~36年代)のことです。鼠橋(念仏橋)を渡ると道はY字路となり、分岐する小高い場所には、かつて小さな石碑があり、念仏塚と称したそうです。念仏塚に至る手前に掛けられていたが念仏橋であり、飯盛川の発するところ、おかねが井戸に身投げした「おかね」の恨みが引くので、恨みが出ないようにと念仏供養をしたのだと語り伝えられています。

お墨つき稲荷

屋敷林内にくっきりと立っている朱の鳥居、その奥に祀られている稲荷神社は、京都の伏見稲荷を勧請したもので、正一位稲荷の上の格式だと言われています。この稲荷は脇道の稲荷様とも呼ばれ、願い事やお礼参りに各地からこの鳥居をくぐる者がいたそうです。

地蔵菩薩

地蔵菩薩は民間信仰と結びついて、庶民のあらゆる願いをかなえてくれるとして、江戸時代を中心に数多く立てられました。
高倉にも、右手には錫杖(しゃくじょう)、左手には宝珠を持つ地蔵菩薩が高福寺近くに立てられています。

雷神様

屋敷林(字山王)内に高さ75cm、奥行 60cm、間口45cmの社があり、その中に雷神様が祀られています。明和元年(1764年)、落雷により家が焼失したので、家の築造と同時に雷神様を祀ったと伝えられています。
雷神様は風邪と耳垂れによく効くと言われ、昭和年代の初期までは、社前に酒を入れた竹筒が糸で吊るされたり、幼児の笛やガラガラ等が数多くお礼参りとして供えられたりしていたそうです。

高倉の沿革

原始の時代から高倉地区及び周辺には人が住み着いていたことが、遺跡から伺い知ることができます。それらの遺跡は、飯盛川流域の大地上に見られます。鶴ヶ島中学西遺跡(脚折 旧石器・縄文時代)、新右エ門遺跡(縄文時代)、天神前遺跡(弥生時代)、小屋遺跡(縄文時代~中世)などです。

集落の形成となると、高倉の場合、奈良時代まで遡ると推定されます。旧高福寺には、鎌倉時代に描かれたと推定される不動明王の掛け軸が保存されていました。小屋遺跡は中世の館跡でもある複合遺跡です。また、近世(安土桃山・江戸時代)初期の文書や絵図には高倉村古屋敷の名が記載されており、中世の高倉の集落形成を推測することができます。この高倉古屋敷は上新田の東方、高倉との境界にあったと推定されます。

現在の上・中・下新田は、近世初頭までは高倉の勢力圏にあったようです。 現在の高倉の集落が形成されたのは、江戸時代の初頭の頃。周辺の散居型集落を計画的に結集したものです。その中心となったのが、旧名主の小川氏です。小川氏は浅羽城主である浅羽氏の家臣だったとの伝承があります。
江戸時代の初期には、川越藩の村で総検地が行われ、高倉村の検地帳も残っています。

近代以降(明治以降)は、しばらくは大きな変化に見舞われることはありませんでしたが、昭和50年以降、公共施設等の建設が続きました。
昭和50年、新所沢変電所運転開始。57年、県立鶴ヶ島高等学校開校。平成7年、高倉クリーンセンター運転開始。8年、中央図書館・ふれあいセンター「鶴の里ふろいで」オープン。9年、農産物直売所オープン。10年、農業交流センターオープン。11年、市民農園オープン。

画期的な新村づくり

village

高倉村の前身は、西方の新所沢変電所付近にありましたが、江戸時代の初頭の頃、現在の地に移転し、新しい高倉村がつくられたと言われています。
その際、画期的とも言える計画的な土地割りが行われました。
それは、基本的に現在に続いているもので、屋敷、森林(萱野)、畑がセットになった配列(整然とした短冊状の配列)です。
元禄年間に川越城主柳沢吉保の命によって開発された三富新田(現在の三芳町、所沢市、川越市)は、屋敷、畑地、農用地がセットされた計画的な新田開発で有名ですが、それを遡ること半世紀以前に、同形式の新村づくりが行われていたことは、高倉にとって誇りうる文化財産と言えます。
江戸時代末までには、農用地として配置された萱野は総て森林化され、近年まで、防風林として、また農用林としての役割を担ってきました。
現在までなお全体としてまとまりのある屋敷林として維持されていることは、たいへん貴重であり、平成8年には、埼玉県の「ふるさと緑の景観地」の指定を受けました。

鶴ヶ島の誕生

Birth

明治22年、町村制の施行により、旧13か村が合併して鶴ヶ島村が生まれました。その際、旧村々は大字になり、高倉村も大字高倉となりました。
新村の名称は、旧脚折村の字名であり旧跡でもある鶴ヶ島が採用されました。名前の由来としては、「遠い昔、一つの島(小高い所)があり、そこに男松、女松が生えていた。この相生の松に鶴が巣ごもり、縁起がよいことが重なったため、鶴ヶ島という名になった」。
また、地形を語源と考えると、ツルとは「細く長く連なった地形」、特に「川に沿った細長い低地」と解釈されることが多くあります。
シマは土地の高い所や耕地などを言います。
従って鶴ヶ島は長く連なった川沿いの微耕地、ということになります。
これは現実の字鶴ヶ島の立地とぴたり合致します。

高倉 第二地区の沿革

高倉第二は昭和になってから、開墾によって開かれた土地です。 昭和9年、高萩村外二か村耕地整理組合が発足し、高萩・高麗川・鶴ヶ島の三か村に跨る約700ヘクタールの開墾に着手しました。当初(昭和11年)鶴ヶ島村内では11戸の入植がありましたが、その後増加して昭和30年には37戸が在住しました。その入植者は、北海道や富山県等の出身でした。 昭和22年、農業改革が実施されるに及び、開墾地の所有は旧地主から入植者に移行しました。残務処理も含めて事業が完結をみたのは、昭和31年のことでした。

高倉歳時記 年行事のあらまし

高倉では、古くから受け伝えられてきた行事を大切に守るほか、地区住民の
コミュニケーションを図るための季節のイベントを開催しています。

1月

1日

新年拝賀式(日枝神社)
高倉に暮らす世帯の当主が集まり、神社拝殿に対し二礼二拝一礼し、新年の祈願を行います。その後、場所を移し、御神酒を酌み交わします。

28日

不動様(高福寺)
1月28日と10月28日は不動明王(一般に不動様と言います)の縁日です。不動様は火の神様で、火が出ないようにと祈ります。

2月

吉日

初午講(日枝神社)
稲荷神社に参詣し、その後、代参講に行く人や、その他の役員を決めます。

22日

祈願祭(日枝神社)
社に米や麦など前年にとれた穀物や酒、水を供えて、穀物がよくとれるようにと祈願します。

3月

第2日曜

お日待(おしら講)
女性だけのお日待ち。一家の主婦が高倉会館に集まり会食する他、踊り等の余興も行われます。

12日

薬師様(高福寺)

4月

8日

大日様(高福寺)
大日如来(一般に如来様と言います)の縁日です。

12日

春神楽(日枝神社)
春の例大祭で、頭付の魚2匹、りんご、大根などを台の上に並べて供え、その年の五穀豊穣、風雨順調等を祈願します。

中旬

高倉菜の花まつり
一面に菜の花を咲かせ、そこに鯉のぼりを上げて、ほのぼのした春の風景をつくります。その菜の花が咲き誇る頃、農業交流センターを会場に菜の花まつりを開催します。

7月

24日

浅間祭(日枝神社)
日枝神社の境内社、浅間社のお祭です。参拝者は子宝に恵まれるようにと願います。

下旬

納涼盆踊り大会
高倉会館で行われる自治会主催の盆踊り。毎年、櫓を中心に踊りの輪が広がり、また出店も出るなどして、多くの人で賑わいます。

8月

28日

不動様(高福寺)

10月

12日

薬師様(高福寺)

上・中旬

市民体育祭
毎年、第一小学校を会場に開催される市民体育祭に参加します。高倉は高倉第二とともにチームを組み、脚折や三ツ木等のチームと競います。

11月

2・3日

高倉獅子舞(日枝神社)

27日

新穀感謝祭(日枝神社)
その年に収穫された穀物を神社に供えて、神に感謝します。
高倉獅子舞
日枝神社例祭日の11月2日と3日に、豊作の感謝と村内安全、悪疫退散のため、獅子舞が奉納されます。江戸時代から続く伝統芸能で、昭和49年、市で最初の文化財に指定されました。
11月2日午後1時、日枝神社を出発し、稲荷神社、高福寺において「女獅子かくし」、「竿がかり」の二舞いが行われ、翌3日の午後1時からは、日枝神社で「女獅子かくし」二舞い、「竿がかり」の一舞いが行われます。
昭和55年までは毎年11月8、9、10の3日間行われていました。
8日は揃いの日で総仕上げとして演技を行い、9日は祭典当日、10日はムラ廻りをしていました。
昭和39年に高倉獅子舞保存会を設立し、以後、保存会を中心に若い世代に継承しています。
薬師様
旧高福寺では、3月12日と10月12日が薬師如来(一般に薬師様と言います)の縁日でご開帳をします。年行事が団子を作り、お参りに来た人に配ります。団子は目玉ぐらいの大きさです。
薬師様は目の神様で、当日配る団子を食べると目に良いとされています。
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